嘉納治五郎師範について
嘉納 治五郎(かのう じごろう、万延元年10月28日〈1860年12月10日〉- 昭和13(1938)年5月4日)
講道館柔道を創始した嘉納治五郎師範は教育者であり、学校教育の充実、体育・スポーツの発展、オリンピック活動の推進に尽力した方です。以下に教育者としての生涯を短く振り返ります。
嘉納師範は万延元年(1860年)12月10日、摂津国莵原郡御影村浜東(現在の兵庫県神戸市東灘区御影)に幕府海軍官材課長・嘉納次郎作希芝の三男として生まれました。加納家は名家で、祖父は酒造業や廻船業で高名な方でした。
9歳(明治3(1870)年)の時に父と上京し、漢学、書、英語を学びます。
官立外国語学校卒業後、官立開成学校入学、16歳で東京大学文学部に編入し、この頃に柔術を学び始めます。
下谷北稲荷町永昌寺に講道館柔道を創立したのは21歳(明治15(1882)年)でした。
21歳(明治15(1882)年)1月に学習院講師になることから教育者としての道を進みます。
学習院では25歳(明治19(1886)年)で教授兼教頭に抜擢されています。
明治24(1891)年に第五高等中学校長、明治26(1893)年に第一高等中学校長に任ぜられた後、
32歳(明治26(1893)年)の時に高等師範学校長就任し、37歳まで2期務めます。
この期間に
・高等師範学校の目的に、教員の養成に加えて、学校長の養成を加える
・修学年限を3年から4年に引き上げる
・学生スポーツ奨励のため「運動会」(現在の学校部活動における運動部)を設置
などを行っています。
37歳(明治31(1898)年)で文部省普通学務局長に就任します。
この期間に
・全国各府県一校以上の高等女学校の設置を進める
・全学生参加の健脚競走(長距離走)行う
などを行っています
40歳(明治33(1901)年)で3度目の高等師範学校長就任し、59歳まで務めます。
この期間に
・「運動会」を解消して「校友会」を設置し、体育系・文科系の課外活動を奨励
・館山での2週間の水泳実習を予科生(新入生)全員参加で行う
・柔道・剣道を全学必修選択とする
・春、秋の長距離走大会を全学生参加で行う
・東京高等師範学校に修学年限4年の体育科を設置する
など今の学校体育の活動につながることを実施しました。
また48歳(明治42(1909)年)の時にアジア初のIOC委員に就任(終身)します。
翌年には大日本体育協会を設立、初代会長に就任し、10年間務めます。
以後日本のオリンピック参加に尽力していきます。
51歳(大正元(1912)年)の時、日本初のオリンピック参加となる第5回オリンピック・ストックホルム大会には団長として参加します。
明治神宮外苑競技場(後の国立競技場)の建設を提案し、これは大正13年(1924年)に竣工します。
71歳(昭和7(1932)年)、第10回オリンピック・ロサンゼルス大会時のIOC総会では、当時の永田東京市長のオリンピック東京招致の正式招請状を提出し、第12回大会の招致合戦に名乗りをあげます。
この努力は実り、4年後の第11回オリンピック・ベルリン大会でのIOC総会にて東京開催(昭和15(1940)年)が正式決定します。
しかし、この東京開催は戦争の影響で実現しませんでした。
昭和13(1938)年にカイロでのIOC総会に出席し、第12回大会を東京、冬季大会を札幌にて開催することを確認しました。その後、ギリシャ、アメリカを経てバンクーバーから帰国途上の5月4日、氷川丸において、肺炎のためご逝去されました。
享年77歳。